『街場の教育論』から「思いが足りない?」英語教育について憂いてみる

内田樹さんの「街場の教育論」を読みました。
「国語教育について」という章が気になったので、そこから少し引用させてもらいたいと思います。
『まず、言葉のストックをどんどん増やしていく。その「私の実感によって充鎭されていない空語」が「私の実感」を富裕化させる。思いがあって言葉が足りない(言葉の貧しさ)vs言葉があまって思いが足りない(身体実感の貧しさ)子供の言語状況は言葉があまって思いが足りないというかたちで構造化されるべき。美しく、響きがよく、ロジカルな「他者の言葉」に集中豪雨的にさらされるという経験が国語教育の中心であるべき。自分の手持ちの身体実感では推し量ることができないけど、言葉だけは知っているという状態。』(引用終わり)

国語教育については全く知識がないので、どのような教育がいいのかは分かりません。ただ、言葉(日本語)のストックを増やすことで自分の中にぼんやりとしていた思いが、形をなしてくることは十分ありそうだし、言葉のストックが増えることで自分の思考を深めることも出来るようになりそうです。

さて、英語教育においては、上で理想とされた国語教育とは理由は違いますが、外国語を学ぶという点から「言葉」を身につけ増やすことが主眼となり、「思い」の部分は後からついてくる、という考え方をすることが多いような気がします。ですが、口をついて英語は出て来てたらそれで安心ではなく、肝心の「思い」が伴っているかどうかに気を配ることも、大切なことのように思います。

「街場の教育論」を読み、国語教育において、「思いがあって言葉が足りない」ではなく、「言葉があまって思いが足りない」を志向する考え方があることを知りました。そして、いつも「言葉が足りない」ことを憂いている英語教育では反対に、「思いが足りない」ことを時には憂いてみてもいいのかもしれないなと思った次第です。

街場の教育論

街場の教育論