「あるかもしれない、ないかもしれないもの」に備えてコミュニケーション活動?

今回は最近あったTwitterのまとめと、1冊の本を読んで感じたことについてです。

Twitterのまとめ:「エリート層の英語力不足」
エリート層の英語力不足 - Togetter

英語と日本語のあいだ (講談社現代新書)

英語と日本語のあいだ (講談社現代新書)

こちらの本からの引用
「高等学校の授業では、英語という外国語を学ぶ基礎を固めておかなくてはならない。英語でのコミュニケーションが必要とされる場合に立った際、ある英語表現について、自分の知識に照らして理解できる、知っている、という力をまず身に付けておくべき。練習は足りなくとも、必要となったときに、自分自身で運用能力を向上させてゆける素地を作っておく。コミュニケーション能力を、実際の場で磨いてゆく事が出来る土台を固める。それが、日本語の環境に生活する高校生達が、かぎられた時間の中で行っておくべき英語学習であるはずである。」とありました。

この文章を読んで2つのことを考えましたが、今回は1つ目です。

「いつかあるかもしれない(=ないかもしれない)コミュニケーションの実際の場面」に備えるという発想を転換してみることも必要なのかもかということです。現状として、学校を卒業後、英語でコミュニケーションをする場面を持つことがない人も多いのは事実でしょう。今後、より国際化が進むと考えると英語でのコミュニケーションの機会は現状よりは増えると思いますが、それでも日本人の全てが「英語でコミュニケーションをする場面」に立ち合うとはあまり思えません。英語でコミュニケーションする機会を持つ人には、現在より遥かにレベルの高い、それこそ他国のトップ達と競争できるような英語コミュニケーション力が求められることになりそうです。(上のブログのまとめよりエリート層の英語力不足 - Togetter)そして、そのような機会のない人はこれまで通りないままじゃないかと。こう考えると、「将来あるかもしれない(ないかもしれない)コミュニケーションの場面」だけに照準を当てるのは、様々な能力差のある生徒がいる教室で行う授業としては、あまり現実的ではないように思います。「ないかもしれないもの」のために、何年間も苦労して準備し続けるって、考えただけで苦しくなってきます。
それなら、「あるかもしれないし、ないかもしれないコミュニケーションの場面」を想定するという発想を止めればいいのではないかと。これまでの発想から「実際にコミュニケーションの場面を創造する」という発想へ変えてみればいいのではないかと。これは、何も私が言うまでもなく、現在多くの現場で言われている「授業自体をコミュニケーションの場」にするという取り組みのことです。
発想の転換をすることで、これまでの「最後に温存しておいたけど、結局大事にし過ぎてやってみる機会がなかった」という状態から抜け出せそうです。この発想ならば、「将来あるかも、ないかも」ではなく、今教室の中に「ある」んですから、それに向けてやることに何の不安を抱く必要が無くなるのではないでしょうか。同じ練習をするなら、不安を持ちながらするよりも、自信をもってできる授業がいいなぁと思った次第です。
「コミュニケーションの場」の創造の仕方、あり方についてはいろいろな議論があり、既に多くの実践も行われていると思いますので、今回はそれば別の機会に考えてみたいと思います。